学術都市アレクサンドリア 知のコスモポリスの始まりから凋落

学術都市アレクサンドリアの誕生

マケドニアの王、アレクサンドロス大王(紀元前336年 - 紀元前323年)は東方に遠征し、紀元前332年にエジプトを征服する。政治が弱体化していたエジプトで、アレクサンドロスは解放者として迎え入れられた。

 

アレクサンドロス大王は、若く死んでしまったが、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。あのナポレオンからも敬愛された。当時のギリシア人が考える世界の主要都市(ギリシアメソポタミア、エジプト、ペルシア、インド)のほとんどを一つにつないだ世界征服者と言える。その功績は各地の征服に成功したことだけにあるのではない。

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愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス-Alexander and Bucephalus-

 

彼が作り上げた大帝国は短命ではあったものの、ギリシア文明とオリエント文明の融合つまり東西世界の融合であり、異文化の交流を図る諸政策を実行したことにもある。広大な領域にドラクマを流通させなどの活発な商取引を実現させるなど、それらの施策が、新しいヘレニズム文化を出現させた。アレクサンドロス大王の東西融合以後の世界は大きく変化し、それは、知の世界、学問においても激震をもたらした。

 

アレクサンドロス大王の知の手本となった家庭教師の一人には、ソクラテスの弟子でアカデメイアで学んだ、万学の祖アリストテレス(紀元前384年-紀元前322年3月7日)がいる。王が東方に遠征し、アテナイに戻ったアリストテレスは、アテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した。アリストテレスの弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派と呼ばれた。このリュケイオンもまた、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続した。しかし、アレクサンドロス大王の時代には、アテナイなどのポリスは弱体化し始める。

 

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アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス Aristotle teaching Alexander the Great

 

アレクサンドロス大王ヘラクレスアキレウスを祖に持つとされ、ゼウスの子であるとの神託を受けたことにより神格化された。当初は、当時のギリシャ人が信仰するギリシャ神話に強い影響を受けていたのである。しかし、オリエント世界を征服する過程で、エジプトではファラオとして振る舞い、ペルセポリスではアケメネス朝の後継者として自らを神格化し、宮廷儀礼を採用した。このような東方化政策がマケドニア人・ギリシア人の部下の反発を受けるように至った。かくして、中央アジアからインダス川上流を越えてインドに入ろうとした東方遠征の計画は、多くの部将の反対で実現できず、インダス川から方向を転じ、西に向かうこととなった。

 

アレクサンドロス大王は、エジプトにマケドニア兵士のための新都市をつくるよう命じた後、自身はこの年にバビロンで死を遂げたが、新都市の場所は事前に選ばれており、これが都市アレクサンドリアとなった。アレクサンドロス大王の意志を継ぎ、都市アレクサンドリアの建造にあたったのはプトレマイオス1世だった。

 

前323年アレクサンドロス大王は、バビロンで熱病にかかり32歳余で亡くなってしまうが、後継者を指名しておらず、その死後は彼の帝国はマケドニア人の後継者(ディアドコイ)に後継者争いが始まり、分割支配されることとなった。プトレマイオスは、後継者争いの中で、30日間も放置もされていたアレクサンドロスの遺体を略取し、アレクサンドリアに埋葬した。その正当な後継者として古代エジプトのファラオであることを宣言した。

 

プトレマイオスは、アレクサンドロスの計画を引き継ぎ、巨大な知の集積地に巨大な灯台(ファロス島の大灯台)がそびえ立つ地中海の中心都市を建設した。その思想の源流には、遠征する地方により柔軟にその地の信仰に自らを合わせたアレクサンドロス大王による人間は民族や思想で差別されることはないという精神があったのかもしれない。それがゆえにアレクサンドリアは知のコスモポリスとなりえたはずだ。アリストテレスアレクサンドロス大王の意志を継ぐプトレマイオス朝のフィロソフィア「愛知」の傾向は、アレクサンドロス大王がつなげた、東西、ギリシア世界から東方から一流の知性を集めることにより、学術の巨大都市を形成した。

 

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ファロス島の大灯台(想像図) Attribution: Emad Victor SHENOUDA

 

アレクサンドリア図書館

プトレマイオス朝時代からローマ帝国時代にかけて、都市アレクサンドリアに建設された図書館が、アレクサンドリア図書館であり、古典古代世界最大の図書館である。交易も盛んであったアレクサンドリアの歴代の王らは、高額な予算をかけて世界中から本を集めて分析した。そして、巨大な知のコスモポリスを形成していく。ヘレニズム時代の学問の集積地として中心的な役割を果たした。図書館自体は、ムセイオンと呼ばれる文芸を司る9人の女神ムサ(ミューズ)に捧げられた大きな研究機関の一部でもあった。ムセイオンでは、学者による授業、教育の機会も期待された。歴代の館長は王から任命され、大きな権限を持った。 

 

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古代のアレクサンドリアの地図。ムセイオンは都市の中央部、大海岸(地図上では「Portus Magnus」)のそばの王宮ブルケイオン(この地図上では「Bruchium」と記されている)にある

 

 

地球の大きさを初めて測定したエラトステネス(紀元前275年 - 紀元前194年)は、アレクサンドリア図書館の三代目の館長を務めた。業績は文献学、地理学をはじめヘレニズム時代の学問の多岐に渡るが、特に数学と天文学の分野で後世に残る大きな業績を残した。 また素数の判定法であるエラトステネスの篩(ふるい)を発明したことで知られる。

 

エウクレイデス(ユークリッド)やアルキメデスらが研究を行い、 クラウディオス・プトレマイオスが『アルマゲスト』(『天文学大全』)をまとめ、ガレノスが医学の研究を、クテシビオスやヘロンは気体の研究を行った。

 

古代ギリシャアテナイでの学問の研究が盛んであり、アテナイと原本と高級なパピルスに複写した複製本のやりとりも行われた。

 

前2世紀初頭の間には、複数の学者たちがアレクサンドリア図書館で医学を研究した。ゼウクシスという経験主義者はヒポクラテス全集のための注解を書いたとされており、彼は図書館の蔵書に加える医学書を獲得するために働いた。

 

この様に東西からあらゆる知性を集めてとりあつかう巨大な図書館は、古代における学問の隆盛を担い、やがて忽然とその姿を消えてしまう。図書館の崩壊の理由は諸説ある。謎に包まれた学問の集積地の消失の手がかりとして、学問都市の最期に生き、学者としてその運命を捧げたヒュパティアに迫る。

 

 アレクサンドリアを代表する女性学者 ヒュパティア

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アテナイの学堂』(1509年 - 1510年) ヴァチカン宮殿ラファエロの間の「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。

 

上記の絵画は、15世紀ルネサンス期に描かれたラファエロの最高傑作の1つと言われる一枚である。ギリシャ文明期の著名な数学者や哲学者を描かれており、ヒュパティアも描かれている。ヒュパティアは左側にたたずむ白い服を着た女性である。そのヒュパティアのすぐ左下では世界で最も有名な定理の一つを発見したとされる数学者ピタゴラス(紀元前570頃-紀元前495頃)が本を読んでいる。

 

アレクサンドリアのテオンの娘として生まれたヒュパティア(350/370頃ー415)

父テオンもヒュパティアも著名な学者としてムセイオン(アレクサンドリア図書館)で活躍した。ヒュパティアは、新プラトン主義哲学者であり、数学者、天文学者としての才能を見せ、やがて父を超え、アレクサンドリアを代表する学者となり始める。彼女は、天体観測儀(アストロラーベ)と液体比重計(ハイドロスコープ)を完成したと伝えられている。 その有能さから、政策への助言を求められる様になる。400年頃には、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になり、生徒たちにプラトンアリストテレスらについて講義を行った。しかし、その美貌に合わせ、女性でありながら、卓越した知性に嫉妬をする人々も多かったという。

 

このころ、キリスト教会はローマ皇帝の保護をうけるようになっており、414年にはアレクサンドリアからユダヤ人の追放や、異教徒への迫害が行われていた。新プラトン主義の他の学校の教義より、ヒュパティアの哲学はより学術的で、神秘主義を廃することに妥協しない点から、キリスト教徒からは異端と見られていた。キリスト教の強硬派がアレクサンドリア総司教に任命されると、ヒュパティアは異教徒として415年に虐殺された。それは最初の魔女狩りとも言うべく暴動の中での虐殺であった。

  

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Death of the philosopher Hypatia, in Alexandria

 

暴徒たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害したと伝えられている。

 

知のコスモポリスの凋落

ヒュパティアの虐殺をきっかけにアレクサンドリアから学術都市であったアレクサンドリアから学者たちの多くが亡命した。アレクサンドリアを中心として栄えた古代学術は一気に凋落して行く。このヒュパティア虐殺事件は、アレクサンドリアにとどまらず、ローマ帝国全体におけるプラトン主義の終焉を意味するものであった。

 

諸説あるものの、この騒動の中アレクサンドリア図書館の書物は焼かれ、ほぼ全滅した。キリスト教の普及とともに、古代ギリシャからの流れを組んでアレクサンドリアで育まれたギリシアの科学思想は、宗教的儀式や宗教的無秩序、占星術神秘主義に追い出され、ヨーロッパはギリシャコスモロジーを闇に葬り去り暗黒時代に入ったのである。

 

640年に都市アレクサンドリアはアラビア人の襲撃を受けて陥落したが、ギリシアの科学はアラビア人の手によって、東方のシリアに伝えられ、さらにそこからビザンティウムバグダッドへと伝えられた。

 

こうして、長い暗黒時代を抜ける12世紀の学芸復興までは、ギリシア科学はヨーロッパからは姿を消して、アラビア世界で繁栄することになったのである。