13世紀 スコラ哲学の体系化

13世期には、古代ギリシャアリストテレス哲学はドミニコ会士の聖トマス・アクィナス(1225ー1274)らによりキリスト教の教義と融合された。スコラ哲学として巨大な知が体系化され。スコラ哲学はこの頃に栄えてきた大学での主要な学問の立ち位置となっていた。 

 

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トマス・アクィナス像、15世紀、カルロ・クリヴェッリ作 ©PublicDomain

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11~12世紀に起こり、13~14世紀の中世ヨーロッパにおける思想の主流となった哲学を「スコラ哲学(スコラ学)」という。スコラとは、教会・修道院に付属する学校のことで、英語の school の語源となったラテン語。  中世ヨーロッパにおいては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた。中世ヨーロッパの哲学はこのような「スコラ」における哲学という意味で「スコラ学」と言われる。その内容は、主としてキリスト教の教義を学ぶ神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することであった。その中心的な課題となった論争は普遍論争であった。

 

 

 

最近読んだ本『日本への警告』

投資家として未来の変化を見極める著者 ジム・ロジャーズ氏は世界中を旅して実際に目で現地の人々の姿を見ながら、投資先、今後の行く末を占ってきた。

 

日本を愛する彼から日本人への警告である本書。日本の外側から客観的に日本に対して警告を与えてくれていて、耳が痛いことがあったとしたら、どのようにその意見を捉えれば良いのだろうか。

 

筆者は戦後日本の成長とバブル経済の経験にいまだ浸り、今回近隣諸国に比べ劣る可能性を拒否し、「日本は大丈夫」と根本的な問題に目を逸らしながら、個人での考える力を失うマニュアル操業に浸り、暗い顔をしている日本人たちを心配している。

 

主に以下の4つの問題の指摘が繰り返されている。

 

少子化

②多額の財政赤字と長期債務残高

③日本は大丈夫という慢心

④近隣国、覇権国の遷移

 

少子化であるにも関わらず、出産率をあげるような政治はなく、移民を嫌うような内向的な国民性

 

翻って、日本の優れた点も鋭く観察しており、もったいない、とする筆者。世界で一番美味しいイタリアンは日本でこそ食べれる。海外の文化を取り込み、一流に仕上げることができる国民性を高く評価している。

 

 

 

2度目のルネサンス 14-15世紀イタリア

このルネサンス期は近代科学の幕開けの時代でもあった。

第二のルネサンスは14世紀のイタリアに始まり、15世紀以降ヨーロッパ各地に広まった古代ギリシャ・ローマ文化の新しい復興運動とそれに伴う文化的変革である。

現世に価値を認めず、死後の魂の救済を求めた中世キリスト教の教えに対し、経験や感覚で確かめられる現実世界をそのまま認めようとする考えが強まり、科学と宗教が対立が激化しはじめた。

中世カトリック教会の権威が揺らぐとともに、それが支えていた価値観も動揺した。絶対的な権威に対して懐疑精神が登場した。権威に対し自己の経験・感覚を満足させない理論を疑う科学精神の萌芽がルネサンス期に出現する。現世に価値を認めず、死後の魂の救済を求めた中世キリスト教の教えに対し、経験や感覚で確かめられる現実世界をそのまま認めようとする考えが強まった。

15〜16世紀のイタリアはヨーロッパでもっとも都市化した地域であり、イタリア・ルネサンスの中心地はフィレンツェであった。
フィレンツェメディチ家の銀行業はヨーロッパ全体を相手に活躍し大富豪となっていた。君主やこうした富裕な商人は文化の熱心なパトロンとして、専門職の人々は著述家や学者として、職人たちは美術家としてルネサンス文化の担い手となった。

12世紀のルネサンスと大学の始まり

12世紀のヨーロッパは、イスラム世界から西欧世界への知識の移転をきっかけにして、文明の遭遇、文明移転と呼ばれ、商業の復興と、大学の誕生、など12世紀は西欧世界のしばしば知的離陸の時代とも呼ばれる。

 

12世紀ルネサンス 

12世紀ルネサンスは、ヨーロッパ中世での古典文化の復興と、文化の高揚が見られるとして、使われる言葉である。これ以前の中世ヨーロッパは暗黒時代とみなされ、中世とルネサンスの間に断絶があると考えられてきた。中世と近世、近代の連続性を強調しようと18世紀のアメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキン(Charles Homer Haskins 1870年-1937年)により『12世紀ルネサンス』(The Renaissance of the twelfth century,1927年)の中で提唱されたものである。後世になって、歴史的に中世の1千年を野蛮で不毛で暗黒であったと示すような対比であるが、この性格は18世紀の啓蒙主義によりさらに強調される。

 

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Charles H. Haskins circa 1900 ©Public Domain

 

 

この二度にわたるルネサンスは、ヨーロッパの人々が、自分たちの歴史を尊敬し、古代人の英知から真理を学ぶことができるという信念に裏付けられたものであり、結果的にはその振り返りが西欧世界の学問に大きな展開を招く土壌となったとも言えるのではないだろうか。

 

中世ヨーロッパのキリスト教文明は、イスラーム教を異教として激しく排除し、レコンキスタや十字軍運動のような敵対行動もあったが、近接するイベリア半島のトレドや南イタリアシチリアパレルモなどでは早くからイスラーム文明の影響を受け、学問が盛んであった。

 

トレドにもたらされた古代ギリシアの文献はイスラーム世界の文化の中心地バグダードの知恵の館でギリシア語からアラビア語に翻訳されたものであり、それがトレドの翻訳学校でラテン語に翻訳され、ヨーロッパ各地にもたらされたのであった。十字軍運動はむしろイスラーム世界との接触が強まる契機となった。

 

スペイン中央部から北東部にかけて南下し、アラビア語写本とそのラテン語訳を吸収していくと、イスラム世界に移転した歴史的の遺産を自由に手に入れるようになり、アラビア世界に伝わった知識の翻訳とアラビア科学の受容から始まった。

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この頃に、医聖ヒポクラティス(460-370)、アルキメデスアリストテレス、数学ユークリッド天文学プトレマイオス、医学ガレノス、などの著書が次々と西洋世界に紹介された。

 

アリストテレスプトレマイオスの天動説による宇宙観が広まったのも、やっとこの頃である。特に、イスラム世界でもよく研究されたアリスウトテレスの自然学と学問の方法論が中世後期の西欧知識人に与えた影響は大きい。『アリストテレス著作集』は、イスラム学者の注釈と共に、ヨーロッパに広がり、13世紀になると、その哲学はトマス・アクィナス(1225-1274)により、キリスト教教義と融合され体系化される。

 

大学の起源

大学の機嫌は、12世紀のルネサンスにおける、大翻訳運動を起源にする説もある。それ以前には、教育の場としては、修道院キリスト教に関わる学校があったものの、この時期に特色のある教育機関が誕生したのである。それは、十字軍以来流入したアラビア文明の影響を受けて医学や哲学の研究を行う組織として生まれた。大量の文献を翻訳し、新しい知識を研究するために自然発生したのである。大学では、ローマ以来の一般教養とされた七自由学科と、神学・医学・法学の三専門学部にわかれる上級学部で学んだ。神学を中心とした教会付属の学校を基礎としつつアラビア世界からの知識を研究した。

 

中世末までに生まれた多くの大学は、カトリック教会の後援により、教皇や世俗君主の主導で設立されてキャンパスは持たなかったが、これらの大学は、ボローニャ大学パリ大学が「自生的大学」であるのに対して、「創られた大学」と呼ばれる。

 

universityの語源であるラテン語universitasは教師と学生が結成したギルドである。つまり、他の職業における同業者組合のような組織が学問の分野に発展したものであった。イタリアのボローニャ大学(1088)は学生組合が、パリ大学(1150)では教師組合が、中心となり、この2つの大学が、後続の大学設立のモデルとなった。

 

ボローニャ大学自由都市国家ボローニャで生まれた。11世紀末以来、『ローマ法大全』を研究したイルネリウスをはじめとして多くの法学者が私塾を開いていたボローニャは、法学校のある学都として有名になり、ここに各国から集まってきた学生たちが市民や市当局に対して自分たちの権利を守るために結束して作った組合が大学の起源である。

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ボローニャ大学における1350年代の講義風景を描いた写本挿絵 ©Public Domain

ボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので、教師は教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した。事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。したがって、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。

 

イギリスのオックスフォード大学(1167)やケンブリッジ大学(1209)は、学生寄宿寮(college, ラテン語 collegium)が大学の構成の重要な役割であったため、カレッジの語源となった。

 

 

 

 

 

 

 

イスラム世界での学問の発展 知恵の館とアラビア科学

アレキサンドリアの凋落(640)をきっかけに、あれ食うサンドリアの有能な学者の多くは、ササン朝ペルシャ領内に逃げ込み、古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統を伝える、また、529年に東ローマ帝国の皇帝ユスティ二アスにより、異端者による哲学の教育を禁止されると、最古の学校アカデメイアは閉鎖に追い込まれそこからも優秀な学者たちが逃げ出した。彼らを迎え入れたペルシア王の下で、ギリシア語からシリア語に、7世紀にイスラムが占領すると、シリア語からアラビア語に翻訳され、イスラム世界に本格的に知が移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。

 

知の移植と融合と発展の中心的な出来事にはいつも「翻訳」があった。古代ギリシアの科学や哲学は、しばしばシリア語を経てアラビア語に翻訳され、さらにアラビア語からヘブライ語ラテン語に翻訳されるという形で地中海を巡った。日本でも、明治初期の大翻訳時代があるし、ヨーロッパでも12世紀のルネサンスに至る大翻訳時代があった。

 

アッバース朝第5代カリフ、ハールーン=アッラシード(在位786~809年)は、エジプトのアレキサンドリアのムセイオンの大図書館、アレキサンドリア図書館(前述)に伝えられていたギリシア語文献を中心とする資料をバグダードに移し、「知恵の宝庫」と名づけた図書館を建設した。ササン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった。中心的な活動は、ギリシア語の学術文献をアラビア語に翻訳することであった。

 

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 イスラーム文明の開花

ハールーン=アッラシードは文芸や芸術を好み、多くの芸術家を保護し、バグダードの繁栄をもたらした。「知恵の宝庫」では、アレクサンドリアのムセイオンに伝えられていたギリシア語文献を、アラビア語に翻訳する学術センターとして機能したが、この施設は、その子マームーンに継承され、830年ごろに建設された「知恵の館」に継承された。この時代がイスラーム文明が最も栄えていた時期であった。

 

イスラーム文明は先行する西アジアメソポタミア、エジプト、ヘレニズムの各文明と、征服者であるアラブ人のもたらしたイスラーム信仰、アラビア語とが融合して成立した。その融合の舞台となったのは都市であったので、イスラーム文明は融合文明であると同時に都市の文明としての特徴もそなえている。特にバグダードやカイロはそのようなイスラーム都市文明が最も特徴的に現れている都市であり、それらにつながる都市のネットワークが生まれ、商品の流通、学問の広がりなどがはかられた。バグダードはさらに発展・拡大していた。商人たちはイスラム世界を越えて、広く世界と取引していた。バスラ港からペルシア湾、インド洋を経て、インド、東南アジア、さらに中国へと船が行き来していた。カスピ海からは北欧へ、地中海経由で南フランスへのルートも開かれていた。このようなルートを通じてバグダードには世界の物産が溢れていた。

 

ハールーン=アッラシードは、有名な『千夜一夜物語』にも登場する。またその中でも有名な船乗りシンドバッドの物語の主人公はバクダードの商人であった。シンドバッドのようなアラビア商人たちが活躍していたのが、この時代のアッバース朝の都バクダードであった。カリフの宮廷は、世界中の富が集まり、豪華な装飾を施した宮廷での生活が行われていたことを示している。ドラえもんのび太ドラビアンナイト」にもハールーン・アル・ラシードとして登場している。

 

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物語に登場する実在の人物、ハールーン・アッ=ラシード

この物語は、冒険商人たちをモデルにした架空の人物から、アッバース朝のカリフであるハールーン・アッ=ラシードや、その妃のズバイダのような実在の人物までが登場し、多彩な物語を繰り広げ、ペルシャ・インド・ギリシャなど様々な地域の物語を含み、当時の歴史家の書いた歴史書とは異なり、中世のイスラム世界の一般庶民の生活を知る一級の資料でもある。

 

イスラーム文明で学問が発達した理由の1つには紙の普及がある。

751年のタラス河畔の戦いにおいて唐軍を破り、 その際捕らえられた唐軍の捕虜の工兵の中に 専属の紙漉き工がいたことから 唐で国外不出とされた紙の製法が アッバース朝に伝わり、イスラーム世界にもたらさた。 757年にはサマルカンドに製紙工場が建設され、 こうした紙が普及した。ハールーン=アッラシードは、 バグダードに紙工場をつくり、 のちにはダマスクスにも設けたといわれている。 その他中国からは養蚕の技術や羅針盤も伝わった。 インドからはゼロの数字をもつ数学が伝来し、インド数字をもとにアラビア数字がつくられた。

 

750-1258 アッバース朝イスラーム文化の黄金期と呼ばれる。アッバース朝の第7代カリフ・マアムーン(813〜833)は、ハールーン=アッラシード(在位786~809年)知恵の宝庫を継承し、バグダードに830年知恵の館を建設し、ここに学者たちを集めて、ギリシア語やペルシア語からアラビア語への翻訳を組織的に推し進めたのである。天文台も併設されていたと言われる。イスラーム世界の高等教育機関ともなっていた。

 

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ハリーリーの『マカーマート』に描かれたバスラの公立図書館(dār al-quṭb)の挿絵(1237年画)

 

マアムーンは文化の発展に力を尽くし、アッバース朝の中で最も教養が高く、学問を愛したカリフと言われる。彼は開明的な君主で詩を愛好し、天文学・数学・医学・ギリシア哲学について造詣が深く、特にユークリッド幾何学に精通していたという。マアムーンは、ギリシアの学問を尊重し、ギリシアの文献収集に力を入れ、それらの文献をアラビア語へ翻訳する事を奨励した。827年には「アルマゲスト」(アレクサンドリア天文学者クラウディオス・プトレマイオスによって書かれた、天文学(実質的には幾何学)の専門書)の翻訳のほか、シンジャール平原において緯度差1度に相当する子午線弧長の測量を命じている。

 

国家事業として、医学書天文学占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトンアリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された「大翻訳」。また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。

 

ギリシア、インド、ペルシアなどアラビア以外から入ってきて、イスラーム文化に受容された学問分野をイスラームでは固有の学問に対して、「外来の学問」と言った。哲学・医学・天文学幾何学・光学・地理学、などがそれにあたる。それらの学問を記述したギリシア語文献はバグダードの知恵の館でアラビア語に翻訳され、その研究から多くの学者が輩出した。やがて十字軍時代にヨーロッパに伝えられてスペインのトレドの翻訳学校などでラテン語に翻訳され、当時のキリスト教神学と結びついてスコラ哲学を成立させるなど、12世紀ルネサンスといわれる現象をもたらした。

 

また、医学の発展も著しかった。主に古代ギリシャ古代ローマ、ペルシア、インドの伝統医学の理論と実践を基に発展した。イスラム世界の学者にとって、ヒポクラテスやガレノスといったギリシャ・ローマの医師は医学の権威であった。そのため、古代ギリシャ・ローマの医学をもっと利用しやすく、学習や教育が容易なものにするために、膨大で矛盾もある知識を整理し、百科事典や要約を作った。シリア語、ギリシャ語、サンスクリット語の膨大な著作がアラビア語へと翻訳され、これらを基に新しい医学体系が作られた。中でも『医学問答集』を著したフナイン・イブン・イスハーク(Johannitius, 809–873)は、良質の翻訳を大量に行ったことで名を残している

 

フナイン・イブン・イスハーク(808年頃–873年頃)は、知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)で活躍した学者の一人である。ギリシア語・アラビア語のほかシリア語にも通じており、「知恵の館」の主任翻訳官を務めた。彼のもとでネストリウス派キリスト教の知識人が集められ、古代の医学書哲学書の翻訳が多く進められた。その中にはプラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、プトレマイオスの『シュンタクシス(数学全書、アルマゲスト)』、ヒポクラテスやガレノスの医学書などが含まれた。彼自身は、眼科学分野に業績を残した。彼のヒトの目についての研究は、彼の創意のある著作『眼科学についての十論』にまとめられている。この著作は、眼科学分野をはじめて体系的に捉えたものとして知られる。

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フナイン・イブン・イスハークの写本に描かれた眼。1200年頃の手写本の挿絵

 

1258年のモンゴル帝国によるバグダードの戦いによりバグダードが陥落した時に、知恵の館もその膨大な文書と共に灰燼に帰した。

 

12世紀にヨーロッパでギリシャ文明の復興が始まる頃、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。

 

イスラム世界で翻訳をはじめとした学問が発達した間、ヨーロッパ中世社会ではギリシア文化と科学、哲学などの学問は忘れ去られていた。イスラーム世界と接するイベリア半島南イタリアで、イスラーム教徒からすぐれた技術に刺激されたヨーロッパのキリスト教徒は、12~13世紀にトレドの翻訳学校などで盛んにアラビア語訳のギリシア文献を、ラテン語訳することが行われるようになった。このように、古代ギリシア文化が中世ヨーロッパに知られたのは、イスラーム世界を経てのことであったことは重要である。

 

学術都市アレクサンドリア 知のコスモポリスの始まりから凋落

学術都市アレクサンドリアの誕生

マケドニアの王、アレクサンドロス大王(紀元前336年 - 紀元前323年)は東方に遠征し、紀元前332年にエジプトを征服する。政治が弱体化していたエジプトで、アレクサンドロスは解放者として迎え入れられた。

 

アレクサンドロス大王は、若く死んでしまったが、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。あのナポレオンからも敬愛された。当時のギリシア人が考える世界の主要都市(ギリシアメソポタミア、エジプト、ペルシア、インド)のほとんどを一つにつないだ世界征服者と言える。その功績は各地の征服に成功したことだけにあるのではない。

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愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス-Alexander and Bucephalus-

 

彼が作り上げた大帝国は短命ではあったものの、ギリシア文明とオリエント文明の融合つまり東西世界の融合であり、異文化の交流を図る諸政策を実行したことにもある。広大な領域にドラクマを流通させなどの活発な商取引を実現させるなど、それらの施策が、新しいヘレニズム文化を出現させた。アレクサンドロス大王の東西融合以後の世界は大きく変化し、それは、知の世界、学問においても激震をもたらした。

 

アレクサンドロス大王の知の手本となった家庭教師の一人には、ソクラテスの弟子でアカデメイアで学んだ、万学の祖アリストテレス(紀元前384年-紀元前322年3月7日)がいる。王が東方に遠征し、アテナイに戻ったアリストテレスは、アテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した。アリストテレスの弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派と呼ばれた。このリュケイオンもまた、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続した。しかし、アレクサンドロス大王の時代には、アテナイなどのポリスは弱体化し始める。

 

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アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス Aristotle teaching Alexander the Great

 

アレクサンドロス大王ヘラクレスアキレウスを祖に持つとされ、ゼウスの子であるとの神託を受けたことにより神格化された。当初は、当時のギリシャ人が信仰するギリシャ神話に強い影響を受けていたのである。しかし、オリエント世界を征服する過程で、エジプトではファラオとして振る舞い、ペルセポリスではアケメネス朝の後継者として自らを神格化し、宮廷儀礼を採用した。このような東方化政策がマケドニア人・ギリシア人の部下の反発を受けるように至った。かくして、中央アジアからインダス川上流を越えてインドに入ろうとした東方遠征の計画は、多くの部将の反対で実現できず、インダス川から方向を転じ、西に向かうこととなった。

 

アレクサンドロス大王は、エジプトにマケドニア兵士のための新都市をつくるよう命じた後、自身はこの年にバビロンで死を遂げたが、新都市の場所は事前に選ばれており、これが都市アレクサンドリアとなった。アレクサンドロス大王の意志を継ぎ、都市アレクサンドリアの建造にあたったのはプトレマイオス1世だった。

 

前323年アレクサンドロス大王は、バビロンで熱病にかかり32歳余で亡くなってしまうが、後継者を指名しておらず、その死後は彼の帝国はマケドニア人の後継者(ディアドコイ)に後継者争いが始まり、分割支配されることとなった。プトレマイオスは、後継者争いの中で、30日間も放置もされていたアレクサンドロスの遺体を略取し、アレクサンドリアに埋葬した。その正当な後継者として古代エジプトのファラオであることを宣言した。

 

プトレマイオスは、アレクサンドロスの計画を引き継ぎ、巨大な知の集積地に巨大な灯台(ファロス島の大灯台)がそびえ立つ地中海の中心都市を建設した。その思想の源流には、遠征する地方により柔軟にその地の信仰に自らを合わせたアレクサンドロス大王による人間は民族や思想で差別されることはないという精神があったのかもしれない。それがゆえにアレクサンドリアは知のコスモポリスとなりえたはずだ。アリストテレスアレクサンドロス大王の意志を継ぐプトレマイオス朝のフィロソフィア「愛知」の傾向は、アレクサンドロス大王がつなげた、東西、ギリシア世界から東方から一流の知性を集めることにより、学術の巨大都市を形成した。

 

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ファロス島の大灯台(想像図) Attribution: Emad Victor SHENOUDA

 

アレクサンドリア図書館

プトレマイオス朝時代からローマ帝国時代にかけて、都市アレクサンドリアに建設された図書館が、アレクサンドリア図書館であり、古典古代世界最大の図書館である。交易も盛んであったアレクサンドリアの歴代の王らは、高額な予算をかけて世界中から本を集めて分析した。そして、巨大な知のコスモポリスを形成していく。ヘレニズム時代の学問の集積地として中心的な役割を果たした。図書館自体は、ムセイオンと呼ばれる文芸を司る9人の女神ムサ(ミューズ)に捧げられた大きな研究機関の一部でもあった。ムセイオンでは、学者による授業、教育の機会も期待された。歴代の館長は王から任命され、大きな権限を持った。 

 

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古代のアレクサンドリアの地図。ムセイオンは都市の中央部、大海岸(地図上では「Portus Magnus」)のそばの王宮ブルケイオン(この地図上では「Bruchium」と記されている)にある

 

 

地球の大きさを初めて測定したエラトステネス(紀元前275年 - 紀元前194年)は、アレクサンドリア図書館の三代目の館長を務めた。業績は文献学、地理学をはじめヘレニズム時代の学問の多岐に渡るが、特に数学と天文学の分野で後世に残る大きな業績を残した。 また素数の判定法であるエラトステネスの篩(ふるい)を発明したことで知られる。

 

エウクレイデス(ユークリッド)やアルキメデスらが研究を行い、 クラウディオス・プトレマイオスが『アルマゲスト』(『天文学大全』)をまとめ、ガレノスが医学の研究を、クテシビオスやヘロンは気体の研究を行った。

 

古代ギリシャアテナイでの学問の研究が盛んであり、アテナイと原本と高級なパピルスに複写した複製本のやりとりも行われた。

 

前2世紀初頭の間には、複数の学者たちがアレクサンドリア図書館で医学を研究した。ゼウクシスという経験主義者はヒポクラテス全集のための注解を書いたとされており、彼は図書館の蔵書に加える医学書を獲得するために働いた。

 

この様に東西からあらゆる知性を集めてとりあつかう巨大な図書館は、古代における学問の隆盛を担い、やがて忽然とその姿を消えてしまう。図書館の崩壊の理由は諸説ある。謎に包まれた学問の集積地の消失の手がかりとして、学問都市の最期に生き、学者としてその運命を捧げたヒュパティアに迫る。

 

 アレクサンドリアを代表する女性学者 ヒュパティア

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アテナイの学堂』(1509年 - 1510年) ヴァチカン宮殿ラファエロの間の「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。

 

上記の絵画は、15世紀ルネサンス期に描かれたラファエロの最高傑作の1つと言われる一枚である。ギリシャ文明期の著名な数学者や哲学者を描かれており、ヒュパティアも描かれている。ヒュパティアは左側にたたずむ白い服を着た女性である。そのヒュパティアのすぐ左下では世界で最も有名な定理の一つを発見したとされる数学者ピタゴラス(紀元前570頃-紀元前495頃)が本を読んでいる。

 

アレクサンドリアのテオンの娘として生まれたヒュパティア(350/370頃ー415)

父テオンもヒュパティアも著名な学者としてムセイオン(アレクサンドリア図書館)で活躍した。ヒュパティアは、新プラトン主義哲学者であり、数学者、天文学者としての才能を見せ、やがて父を超え、アレクサンドリアを代表する学者となり始める。彼女は、天体観測儀(アストロラーベ)と液体比重計(ハイドロスコープ)を完成したと伝えられている。 その有能さから、政策への助言を求められる様になる。400年頃には、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になり、生徒たちにプラトンアリストテレスらについて講義を行った。しかし、その美貌に合わせ、女性でありながら、卓越した知性に嫉妬をする人々も多かったという。

 

このころ、キリスト教会はローマ皇帝の保護をうけるようになっており、414年にはアレクサンドリアからユダヤ人の追放や、異教徒への迫害が行われていた。新プラトン主義の他の学校の教義より、ヒュパティアの哲学はより学術的で、神秘主義を廃することに妥協しない点から、キリスト教徒からは異端と見られていた。キリスト教の強硬派がアレクサンドリア総司教に任命されると、ヒュパティアは異教徒として415年に虐殺された。それは最初の魔女狩りとも言うべく暴動の中での虐殺であった。

  

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Death of the philosopher Hypatia, in Alexandria

 

暴徒たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害したと伝えられている。

 

知のコスモポリスの凋落

ヒュパティアの虐殺をきっかけにアレクサンドリアから学術都市であったアレクサンドリアから学者たちの多くが亡命した。アレクサンドリアを中心として栄えた古代学術は一気に凋落して行く。このヒュパティア虐殺事件は、アレクサンドリアにとどまらず、ローマ帝国全体におけるプラトン主義の終焉を意味するものであった。

 

諸説あるものの、この騒動の中アレクサンドリア図書館の書物は焼かれ、ほぼ全滅した。キリスト教の普及とともに、古代ギリシャからの流れを組んでアレクサンドリアで育まれたギリシアの科学思想は、宗教的儀式や宗教的無秩序、占星術神秘主義に追い出され、ヨーロッパはギリシャコスモロジーを闇に葬り去り暗黒時代に入ったのである。

 

640年に都市アレクサンドリアはアラビア人の襲撃を受けて陥落したが、ギリシアの科学はアラビア人の手によって、東方のシリアに伝えられ、さらにそこからビザンティウムバグダッドへと伝えられた。

 

こうして、長い暗黒時代を抜ける12世紀の学芸復興までは、ギリシア科学はヨーロッパからは姿を消して、アラビア世界で繁栄することになったのである。

アテナイに思いを馳せる

人類の「科学と社会」のヒストリーは、その時々に民衆が信じている思想、神話、民話や宗教、そして権威を持った組織や人物がストーリーをドラマチックに仕立ててくれる。科学の始まりとは、諸説あれど、まずは古代ギリシャを起点として良いだろう。古代ギリシャアテナイの地に想いを馳せることで、人類の科学の原点を回想できるのかもしれない。

 

アテナイ古代ギリシア語: Ἀθῆναι, 古代ギリシア語ラテン翻字: Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人古代ギリシア都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。

 

ポリスを中心とした明るく合理的で人間中心的な古代ギリシャ文化において民衆が信じる思想というのは、ギリシャ神話であり、そのストーリーと芸術、天文学、哲学といった学問は密接な関わりを持っている。オリンポス12神を中心とした喜怒哀楽が見られる多神教の世界観を信仰したギリシャ人の思想は、神話の説明、そして、その神話の説明の限界から、人間の理性による哲学、学術的な説明へと転換しながら学問の誕生に繋がる。

 

ギリシャ神話では、個性豊かな神々は惑星になぞらえられ、星座もストーリーに合わせて上手く関連されている。ギリシャ神話は様々なストーリーの原形として、今なお語り継がれている言わずと知れた人類の名作であり、現在も教養として語り継がれているのは、そのストーリーの中にコスモス(法則的秩序を持った宇宙)が内在しているからであろう。そして、永遠に続く秩序、それ自体をロゴス(理:ことわり)として考えられた。だが、アテナイの人々は神々の神話だけでは説明できない自然に気付き、新しいコスモスを探求しはじめる。

 

古代ギリシアヘラクレイトスは、コスモスについて

「この全体のコスモス(秩序)は、神や人の誰かが作ったというものではない。むしろいつもあったのだ。そして今もあり、これからもあるだろう」

と述べている。

 

このコスモスに内在するロゴスを研究する学問がコスモロジー宇宙論)である。コスモロジーはまず、神話からスタートして、徐々に学問的知識へと発展していく。

 

一時の空白の期間をおいて、この人間らしい豊かな感情を持った神々の織りなすダイナミックなストーリーであるギリシャ神話とこの時期に発達したコスモロジーが一度目と二度目のルネサンス期の後世にも重要な役割を果たすことも忘れてはならない。この時代、ギリシア人としての出現とともに西洋文明が始まったとされ、ギリシア人が作り出した無数の価値観がそのまま後世に持ち込まれてゆき西洋文明の中核をなすものとなっていった。

 

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アテナイの学堂(ラファエロ)1509年 – 1510年、所蔵:バチカン宮殿

 

 この絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したもの。この絵に描かれている人々は有名な古代ギリシアの哲学者たちである。学堂はギリシャ十字(縦横が等しい十字)の形の中にあり、キリスト教神学と非キリスト教ギリシア哲学との調和を意図したものと思われている。

中心にプラトンアリストテレスが位置し、プラトンが指を天に向けているのに対し、アリストテレスは手のひらで地を示している。これは、プラトンの観念論的なイデア論の哲学に対し、アリストテレスの哲学の現実的なさまを象徴していると考えられている。

 

ギリシャ神話の中のアテナイ 

ギリシャ神話の中でアテネに最も関わりの深い神は12神の1人、アテーナーである。知恵、芸術、工芸、そして戦略を司る神、アテーナーは父ゼノンの頭を斧で割った時に誕生した。誕生した時にはすでに、甲冑を身につけている。 

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アテーナーの誕生』 (ルネ=アントワーヌ・ウアス作、1688年より前、ヴェルサイユ宮殿所蔵)

 

アテナイは水神ポセイドンと女神アテーナーが、その当時まだ名前の無かったアテナイの領有権をめぐって争い、それにアテーナーが勝利したため、女神の名にちなんでアテナイと名づけられたとされている。その争いとは、アテナイ市民により有益なものを作り出したほうを勝者とする者であり、ポセイドンは泉の中から馬を出し(塩水の源泉を湧かせたとも)、アテナはオリーブの木を生み出し、オリーブの油の方がより有益であると市民に判定されたとされる。

 

有名な建築物であるパルテノン神殿は、古代ギリシャ時代にアテナイのアクロポリスに建造された。それは、アテナイの守護神アテーナーを祀る神殿でもあった。

 

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アテーナーは戦いの神であるとも言われているが荒ぶった「闘争」の神ではなく、「正義と知性」ある戦いの神、アテーナーの戦いは、都市の自治と平和を守るための戦いであり軍神アレスの戦いとは異なる。

 

ポリスの守護者、都市を守る女神でもあり、都市アテナイを中心に崇められる。アテナイでは学者は啓示を、裁判官は明晰を求め、軍人は戦術を磨こうとアテーナーに祈りを捧げたと言われる。

 

アテナイでの文化

古代ギリシアにおいては個人のみならず、ポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる。

 

古代ギリシアでは宗教は大きな位置を占めており、アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、生活の隅々にまでその影響は及んでいた。特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、デルフィでの神託は未来を予知するためのものだと認識されていた。さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた。

 

奴隷制が発達し、特に家庭内奴隷が多く、奴隷が人口の1/3を占めたポリスでは、市民の閑暇(スコレー)が 哲学、フィロソフィア(愛知)、つまり、神話で解決できない物事の説明、理性(ロゴス)に基づき、理性的に物事を探求する方へ向かわせた。彼らは次第に、日常生活からきり離れて、万物の根元(アルケー)を探求しはじめた。

 

アテナイでは世界で初めての民主主義が誕生したとして知られており、ポリス(都市国家)において発展した。古代ギリシアの典型的ポリスであるアテネでは、前6世紀末までに参政権をもつ市民が直接的に運用する民主政治が実現、ペルシア戦争後の前5世紀中頃のペリクレス時代に全盛期を迎えた。民主制は古代ギリシアの代表的なポリスであるアテネで典型的に発展した政治形態であり、現在の民主主義を意味するデモクラシーという言葉もこの時期の政治形態が源流である。

 

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民主政治を導くペリクレス

 

ギリシア各地から学者、芸術家が集まり文化の花が開き、ギリシア哲学のソクラテスプラトンアリストテレス、劇作家のアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスギリシャ悲劇)、アリストパネスギリシャ喜劇)、彫刻家のペイディアス、歴史家のトゥキディデス、著述家のクセノポンらが輩出した。皮肉なことに彼らの多くがアテナイの没落を目にして役職の直接選挙制に否定的な思想を唱えた。

 

市民参加型の民主政治が実現したポリスでは、人々に発言の機会があり、そこでは、人々を説得させる弁論、弁論術が流行し、世の中を自然の法則(ヒュシス)と人為的(ノモス)な法則に分け、人為的な物事に絶対などないとする相対主義が出現した。その相対主義を前面に出して、弁論術を教える職業教師をソフィストと呼んだ。プロタゴラスは「人間が万物の尺度」と普遍的な真理を否定した有名なソフィストの一人である。

 

真理を相対化し、何事も利己的に説明することができれば、社会で守るべき普遍的なルールや法律を変えることができてしまうソフィストは実際には市民に詭弁論を教えて愚衆政治に導くことをソクラテスは批判した。ソクラテスソフィストと対立し、弁論術を磨き人間を万物の尺度と真理の相対化に対抗。真の知への探究という使命を果たすが、青年たちへ問答法を通して無知を自覚させたことに、国家の神々を否定し青年を害した罪に逃げず、「悪法も法なり」と自分の死を最後の皆への教えとした。

 

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ソクラテスの死』

 

 

古代ギリシア民主政では女性の参政権はなく、生産は奴隷に依存しており、また近隣の植民地にも生産を依存していた。またアテネ海上帝国化していく過程で次第に衆愚政治に陥り、前5世紀末のペロポネソス戦争後は次第に衰退した。

 

アテナイでのコスモロジー

人間の天文に関する知識やその頃の市民の価値観はギリシャ神話の中で語り継がれたのだろう。自然現象を神話で説明することの限界を迎え、奴隷制度による閑暇から人間の理性による哲学、フィロソフィーが発達しはじめ、長らく学問へ影響を及ぼした「アリストテレス的自然観」の誕生へとつながってゆく。

 
雄弁なギリシャ神話のストーリーの体系が古代ギリシャの中核になっていたのは、その時代の人間の暮らしに馴染んでいたからである。その時代、人間の暮らしの中での人々の観察対象、観察可能なシステマティックに動く物事とは、天体、星の動きであった。

 

紀元前3500年ごろから、古代メソポタミア古代エジプトに置いても独自の文明が発達し、天文学の知識は蓄積していた。その知識が体系化され始めたのは、古代ギリシャにおいてである。古代ギリシャの人たちは秩序だった規則的運行を続ける宇宙をコスモスと呼んだ。カオスに対し、法則秩序を持った宇宙をコスモスとしている。

  

古代ギリシャコスモロジーとは、神話の影響を受けながらも天体の運動を論じる天文学と地上の物体運動を論じる自然学であり、コスモスの探究は自然哲学者の手に移り、万物の根源を(アルケー)解明することに焦点が当たる。アルケーへの問いは自然哲学者によって様々に自由に述べられている。 

 

最初の哲学者であるタレスは「水」、ヘラクレイトスの「火」、エンペドクレスの「火・空気・土・水」4つの元素と「愛・憎しみ」による運動因子、ピュタゴラスの「数」、デモクリトスの「原子(アトム)」、、など。これらはギリシャ的な物質観の基礎となり、アリストテレス的自然観に吸収される。

(サイバー時代の万物の根元は「情報」、とでもいうのだろうか?)

 

そして、このアリストテレス的自然観は、何とおよそ2000年の長期に渡り自然感を占領し続けた。この長期コスモスにパラダイムシフトを起こしたのが「科学革命」である。

 

コスモロジーの継承

古代ギリシャ哲学は、すんなりと中世のキリスト教世界に引き継がれてはいない。古代ギリシャと中世の間には空白がある。古代ギリシャの科学的知識はヨーロッパからアラビア世界に伝えられ発展を遂げている。つまり、アラビア世界から独自の発展を遂げたギリシャの科学的知識が、12世紀のルネサンスにより逆輸入されたのである。

 

ルネサンスは通常14−16世紀にかけての文芸復興を指されるが、歴史家のチャールズ・ハスキンズは、ギリシャの科学的学問としての復興を、12世紀のルネサンスと呼んだ。このルネサンスでは、イスラム世界から西欧世界への知識の移転を、文明の遭遇、文明移転と呼び、12世紀は西欧世界の知的離陸の時代であったと、伊藤俊太郎は述べている。

 

アラビア化学は、ギリシャ科学の、数学、天文学、自然学の伝統を受け継ぎ、さらに、錬金術や医学、など、実践的な部分を強化させた。この錬金術に代表される、実験技法は、13世紀のベーコンなどによる実験科学に結びついていく。

 

ギリシャ哲学、ギリシャ科学が、論証精神とすれば、アラビア科学、錬金術に対応するのが、実験精神であり、論証精神と実験精神の融合と、ヨーロッパへの知識の移転は、近代科学の母胎になったと言える。