12世紀のルネサンスと大学の始まり

12世紀のヨーロッパは、イスラム世界から西欧世界への知識の移転をきっかけにして、文明の遭遇、文明移転と呼ばれ、商業の復興と、大学の誕生、など12世紀は西欧世界のしばしば知的離陸の時代とも呼ばれる。

 

12世紀ルネサンス 

12世紀ルネサンスは、ヨーロッパ中世での古典文化の復興と、文化の高揚が見られるとして、使われる言葉である。これ以前の中世ヨーロッパは暗黒時代とみなされ、中世とルネサンスの間に断絶があると考えられてきた。中世と近世、近代の連続性を強調しようと18世紀のアメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキン(Charles Homer Haskins 1870年-1937年)により『12世紀ルネサンス』(The Renaissance of the twelfth century,1927年)の中で提唱されたものである。後世になって、歴史的に中世の1千年を野蛮で不毛で暗黒であったと示すような対比であるが、この性格は18世紀の啓蒙主義によりさらに強調される。

 

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Charles H. Haskins circa 1900 ©Public Domain

 

 

この二度にわたるルネサンスは、ヨーロッパの人々が、自分たちの歴史を尊敬し、古代人の英知から真理を学ぶことができるという信念に裏付けられたものであり、結果的にはその振り返りが西欧世界の学問に大きな展開を招く土壌となったとも言えるのではないだろうか。

 

中世ヨーロッパのキリスト教文明は、イスラーム教を異教として激しく排除し、レコンキスタや十字軍運動のような敵対行動もあったが、近接するイベリア半島のトレドや南イタリアシチリアパレルモなどでは早くからイスラーム文明の影響を受け、学問が盛んであった。

 

トレドにもたらされた古代ギリシアの文献はイスラーム世界の文化の中心地バグダードの知恵の館でギリシア語からアラビア語に翻訳されたものであり、それがトレドの翻訳学校でラテン語に翻訳され、ヨーロッパ各地にもたらされたのであった。十字軍運動はむしろイスラーム世界との接触が強まる契機となった。

 

スペイン中央部から北東部にかけて南下し、アラビア語写本とそのラテン語訳を吸収していくと、イスラム世界に移転した歴史的の遺産を自由に手に入れるようになり、アラビア世界に伝わった知識の翻訳とアラビア科学の受容から始まった。

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この頃に、医聖ヒポクラティス(460-370)、アルキメデスアリストテレス、数学ユークリッド天文学プトレマイオス、医学ガレノス、などの著書が次々と西洋世界に紹介された。

 

アリストテレスプトレマイオスの天動説による宇宙観が広まったのも、やっとこの頃である。特に、イスラム世界でもよく研究されたアリスウトテレスの自然学と学問の方法論が中世後期の西欧知識人に与えた影響は大きい。『アリストテレス著作集』は、イスラム学者の注釈と共に、ヨーロッパに広がり、13世紀になると、その哲学はトマス・アクィナス(1225-1274)により、キリスト教教義と融合され体系化される。

 

大学の起源

大学の機嫌は、12世紀のルネサンスにおける、大翻訳運動を起源にする説もある。それ以前には、教育の場としては、修道院キリスト教に関わる学校があったものの、この時期に特色のある教育機関が誕生したのである。それは、十字軍以来流入したアラビア文明の影響を受けて医学や哲学の研究を行う組織として生まれた。大量の文献を翻訳し、新しい知識を研究するために自然発生したのである。大学では、ローマ以来の一般教養とされた七自由学科と、神学・医学・法学の三専門学部にわかれる上級学部で学んだ。神学を中心とした教会付属の学校を基礎としつつアラビア世界からの知識を研究した。

 

中世末までに生まれた多くの大学は、カトリック教会の後援により、教皇や世俗君主の主導で設立されてキャンパスは持たなかったが、これらの大学は、ボローニャ大学パリ大学が「自生的大学」であるのに対して、「創られた大学」と呼ばれる。

 

universityの語源であるラテン語universitasは教師と学生が結成したギルドである。つまり、他の職業における同業者組合のような組織が学問の分野に発展したものであった。イタリアのボローニャ大学(1088)は学生組合が、パリ大学(1150)では教師組合が、中心となり、この2つの大学が、後続の大学設立のモデルとなった。

 

ボローニャ大学自由都市国家ボローニャで生まれた。11世紀末以来、『ローマ法大全』を研究したイルネリウスをはじめとして多くの法学者が私塾を開いていたボローニャは、法学校のある学都として有名になり、ここに各国から集まってきた学生たちが市民や市当局に対して自分たちの権利を守るために結束して作った組合が大学の起源である。

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ボローニャ大学における1350年代の講義風景を描いた写本挿絵 ©Public Domain

ボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので、教師は教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した。事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。したがって、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。

 

イギリスのオックスフォード大学(1167)やケンブリッジ大学(1209)は、学生寄宿寮(college, ラテン語 collegium)が大学の構成の重要な役割であったため、カレッジの語源となった。