イスラム世界での学問の発展 知恵の館とアラビア科学

アレキサンドリアの凋落(640)をきっかけに、あれ食うサンドリアの有能な学者の多くは、ササン朝ペルシャ領内に逃げ込み、古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統を伝える、また、529年に東ローマ帝国の皇帝ユスティ二アスにより、異端者による哲学の教育を禁止されると、最古の学校アカデメイアは閉鎖に追い込まれそこからも優秀な学者たちが逃げ出した。彼らを迎え入れたペルシア王の下で、ギリシア語からシリア語に、7世紀にイスラムが占領すると、シリア語からアラビア語に翻訳され、イスラム世界に本格的に知が移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。

 

知の移植と融合と発展の中心的な出来事にはいつも「翻訳」があった。古代ギリシアの科学や哲学は、しばしばシリア語を経てアラビア語に翻訳され、さらにアラビア語からヘブライ語ラテン語に翻訳されるという形で地中海を巡った。日本でも、明治初期の大翻訳時代があるし、ヨーロッパでも12世紀のルネサンスに至る大翻訳時代があった。

 

アッバース朝第5代カリフ、ハールーン=アッラシード(在位786~809年)は、エジプトのアレキサンドリアのムセイオンの大図書館、アレキサンドリア図書館(前述)に伝えられていたギリシア語文献を中心とする資料をバグダードに移し、「知恵の宝庫」と名づけた図書館を建設した。ササン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった。中心的な活動は、ギリシア語の学術文献をアラビア語に翻訳することであった。

 

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 イスラーム文明の開花

ハールーン=アッラシードは文芸や芸術を好み、多くの芸術家を保護し、バグダードの繁栄をもたらした。「知恵の宝庫」では、アレクサンドリアのムセイオンに伝えられていたギリシア語文献を、アラビア語に翻訳する学術センターとして機能したが、この施設は、その子マームーンに継承され、830年ごろに建設された「知恵の館」に継承された。この時代がイスラーム文明が最も栄えていた時期であった。

 

イスラーム文明は先行する西アジアメソポタミア、エジプト、ヘレニズムの各文明と、征服者であるアラブ人のもたらしたイスラーム信仰、アラビア語とが融合して成立した。その融合の舞台となったのは都市であったので、イスラーム文明は融合文明であると同時に都市の文明としての特徴もそなえている。特にバグダードやカイロはそのようなイスラーム都市文明が最も特徴的に現れている都市であり、それらにつながる都市のネットワークが生まれ、商品の流通、学問の広がりなどがはかられた。バグダードはさらに発展・拡大していた。商人たちはイスラム世界を越えて、広く世界と取引していた。バスラ港からペルシア湾、インド洋を経て、インド、東南アジア、さらに中国へと船が行き来していた。カスピ海からは北欧へ、地中海経由で南フランスへのルートも開かれていた。このようなルートを通じてバグダードには世界の物産が溢れていた。

 

ハールーン=アッラシードは、有名な『千夜一夜物語』にも登場する。またその中でも有名な船乗りシンドバッドの物語の主人公はバクダードの商人であった。シンドバッドのようなアラビア商人たちが活躍していたのが、この時代のアッバース朝の都バクダードであった。カリフの宮廷は、世界中の富が集まり、豪華な装飾を施した宮廷での生活が行われていたことを示している。ドラえもんのび太ドラビアンナイト」にもハールーン・アル・ラシードとして登場している。

 

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物語に登場する実在の人物、ハールーン・アッ=ラシード

この物語は、冒険商人たちをモデルにした架空の人物から、アッバース朝のカリフであるハールーン・アッ=ラシードや、その妃のズバイダのような実在の人物までが登場し、多彩な物語を繰り広げ、ペルシャ・インド・ギリシャなど様々な地域の物語を含み、当時の歴史家の書いた歴史書とは異なり、中世のイスラム世界の一般庶民の生活を知る一級の資料でもある。

 

イスラーム文明で学問が発達した理由の1つには紙の普及がある。

751年のタラス河畔の戦いにおいて唐軍を破り、 その際捕らえられた唐軍の捕虜の工兵の中に 専属の紙漉き工がいたことから 唐で国外不出とされた紙の製法が アッバース朝に伝わり、イスラーム世界にもたらさた。 757年にはサマルカンドに製紙工場が建設され、 こうした紙が普及した。ハールーン=アッラシードは、 バグダードに紙工場をつくり、 のちにはダマスクスにも設けたといわれている。 その他中国からは養蚕の技術や羅針盤も伝わった。 インドからはゼロの数字をもつ数学が伝来し、インド数字をもとにアラビア数字がつくられた。

 

750-1258 アッバース朝イスラーム文化の黄金期と呼ばれる。アッバース朝の第7代カリフ・マアムーン(813〜833)は、ハールーン=アッラシード(在位786~809年)知恵の宝庫を継承し、バグダードに830年知恵の館を建設し、ここに学者たちを集めて、ギリシア語やペルシア語からアラビア語への翻訳を組織的に推し進めたのである。天文台も併設されていたと言われる。イスラーム世界の高等教育機関ともなっていた。

 

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ハリーリーの『マカーマート』に描かれたバスラの公立図書館(dār al-quṭb)の挿絵(1237年画)

 

マアムーンは文化の発展に力を尽くし、アッバース朝の中で最も教養が高く、学問を愛したカリフと言われる。彼は開明的な君主で詩を愛好し、天文学・数学・医学・ギリシア哲学について造詣が深く、特にユークリッド幾何学に精通していたという。マアムーンは、ギリシアの学問を尊重し、ギリシアの文献収集に力を入れ、それらの文献をアラビア語へ翻訳する事を奨励した。827年には「アルマゲスト」(アレクサンドリア天文学者クラウディオス・プトレマイオスによって書かれた、天文学(実質的には幾何学)の専門書)の翻訳のほか、シンジャール平原において緯度差1度に相当する子午線弧長の測量を命じている。

 

国家事業として、医学書天文学占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトンアリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された「大翻訳」。また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。

 

ギリシア、インド、ペルシアなどアラビア以外から入ってきて、イスラーム文化に受容された学問分野をイスラームでは固有の学問に対して、「外来の学問」と言った。哲学・医学・天文学幾何学・光学・地理学、などがそれにあたる。それらの学問を記述したギリシア語文献はバグダードの知恵の館でアラビア語に翻訳され、その研究から多くの学者が輩出した。やがて十字軍時代にヨーロッパに伝えられてスペインのトレドの翻訳学校などでラテン語に翻訳され、当時のキリスト教神学と結びついてスコラ哲学を成立させるなど、12世紀ルネサンスといわれる現象をもたらした。

 

また、医学の発展も著しかった。主に古代ギリシャ古代ローマ、ペルシア、インドの伝統医学の理論と実践を基に発展した。イスラム世界の学者にとって、ヒポクラテスやガレノスといったギリシャ・ローマの医師は医学の権威であった。そのため、古代ギリシャ・ローマの医学をもっと利用しやすく、学習や教育が容易なものにするために、膨大で矛盾もある知識を整理し、百科事典や要約を作った。シリア語、ギリシャ語、サンスクリット語の膨大な著作がアラビア語へと翻訳され、これらを基に新しい医学体系が作られた。中でも『医学問答集』を著したフナイン・イブン・イスハーク(Johannitius, 809–873)は、良質の翻訳を大量に行ったことで名を残している

 

フナイン・イブン・イスハーク(808年頃–873年頃)は、知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)で活躍した学者の一人である。ギリシア語・アラビア語のほかシリア語にも通じており、「知恵の館」の主任翻訳官を務めた。彼のもとでネストリウス派キリスト教の知識人が集められ、古代の医学書哲学書の翻訳が多く進められた。その中にはプラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、プトレマイオスの『シュンタクシス(数学全書、アルマゲスト)』、ヒポクラテスやガレノスの医学書などが含まれた。彼自身は、眼科学分野に業績を残した。彼のヒトの目についての研究は、彼の創意のある著作『眼科学についての十論』にまとめられている。この著作は、眼科学分野をはじめて体系的に捉えたものとして知られる。

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フナイン・イブン・イスハークの写本に描かれた眼。1200年頃の手写本の挿絵

 

1258年のモンゴル帝国によるバグダードの戦いによりバグダードが陥落した時に、知恵の館もその膨大な文書と共に灰燼に帰した。

 

12世紀にヨーロッパでギリシャ文明の復興が始まる頃、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。

 

イスラム世界で翻訳をはじめとした学問が発達した間、ヨーロッパ中世社会ではギリシア文化と科学、哲学などの学問は忘れ去られていた。イスラーム世界と接するイベリア半島南イタリアで、イスラーム教徒からすぐれた技術に刺激されたヨーロッパのキリスト教徒は、12~13世紀にトレドの翻訳学校などで盛んにアラビア語訳のギリシア文献を、ラテン語訳することが行われるようになった。このように、古代ギリシア文化が中世ヨーロッパに知られたのは、イスラーム世界を経てのことであったことは重要である。