アテナイに思いを馳せる

人類の「科学と社会」のヒストリーは、その時々に民衆が信じている思想、神話、民話や宗教、そして権威を持った組織や人物がストーリーをドラマチックに仕立ててくれる。科学の始まりとは、諸説あれど、まずは古代ギリシャを起点として良いだろう。古代ギリシャアテナイの地に想いを馳せることで、人類の科学の原点を回想できるのかもしれない。

 

アテナイ古代ギリシア語: Ἀθῆναι, 古代ギリシア語ラテン翻字: Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人古代ギリシア都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。

 

ポリスを中心とした明るく合理的で人間中心的な古代ギリシャ文化において民衆が信じる思想というのは、ギリシャ神話であり、そのストーリーと芸術、天文学、哲学といった学問は密接な関わりを持っている。オリンポス12神を中心とした喜怒哀楽が見られる多神教の世界観を信仰したギリシャ人の思想は、神話の説明、そして、その神話の説明の限界から、人間の理性による哲学、学術的な説明へと転換しながら学問の誕生に繋がる。

 

ギリシャ神話では、個性豊かな神々は惑星になぞらえられ、星座もストーリーに合わせて上手く関連されている。ギリシャ神話は様々なストーリーの原形として、今なお語り継がれている言わずと知れた人類の名作であり、現在も教養として語り継がれているのは、そのストーリーの中にコスモス(法則的秩序を持った宇宙)が内在しているからであろう。そして、永遠に続く秩序、それ自体をロゴス(理:ことわり)として考えられた。だが、アテナイの人々は神々の神話だけでは説明できない自然に気付き、新しいコスモスを探求しはじめる。

 

古代ギリシアヘラクレイトスは、コスモスについて

「この全体のコスモス(秩序)は、神や人の誰かが作ったというものではない。むしろいつもあったのだ。そして今もあり、これからもあるだろう」

と述べている。

 

このコスモスに内在するロゴスを研究する学問がコスモロジー宇宙論)である。コスモロジーはまず、神話からスタートして、徐々に学問的知識へと発展していく。

 

一時の空白の期間をおいて、この人間らしい豊かな感情を持った神々の織りなすダイナミックなストーリーであるギリシャ神話とこの時期に発達したコスモロジーが一度目と二度目のルネサンス期の後世にも重要な役割を果たすことも忘れてはならない。この時代、ギリシア人としての出現とともに西洋文明が始まったとされ、ギリシア人が作り出した無数の価値観がそのまま後世に持ち込まれてゆき西洋文明の中核をなすものとなっていった。

 

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アテナイの学堂(ラファエロ)1509年 – 1510年、所蔵:バチカン宮殿

 

 この絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したもの。この絵に描かれている人々は有名な古代ギリシアの哲学者たちである。学堂はギリシャ十字(縦横が等しい十字)の形の中にあり、キリスト教神学と非キリスト教ギリシア哲学との調和を意図したものと思われている。

中心にプラトンアリストテレスが位置し、プラトンが指を天に向けているのに対し、アリストテレスは手のひらで地を示している。これは、プラトンの観念論的なイデア論の哲学に対し、アリストテレスの哲学の現実的なさまを象徴していると考えられている。

 

ギリシャ神話の中のアテナイ 

ギリシャ神話の中でアテネに最も関わりの深い神は12神の1人、アテーナーである。知恵、芸術、工芸、そして戦略を司る神、アテーナーは父ゼノンの頭を斧で割った時に誕生した。誕生した時にはすでに、甲冑を身につけている。 

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アテーナーの誕生』 (ルネ=アントワーヌ・ウアス作、1688年より前、ヴェルサイユ宮殿所蔵)

 

アテナイは水神ポセイドンと女神アテーナーが、その当時まだ名前の無かったアテナイの領有権をめぐって争い、それにアテーナーが勝利したため、女神の名にちなんでアテナイと名づけられたとされている。その争いとは、アテナイ市民により有益なものを作り出したほうを勝者とする者であり、ポセイドンは泉の中から馬を出し(塩水の源泉を湧かせたとも)、アテナはオリーブの木を生み出し、オリーブの油の方がより有益であると市民に判定されたとされる。

 

有名な建築物であるパルテノン神殿は、古代ギリシャ時代にアテナイのアクロポリスに建造された。それは、アテナイの守護神アテーナーを祀る神殿でもあった。

 

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アテーナーは戦いの神であるとも言われているが荒ぶった「闘争」の神ではなく、「正義と知性」ある戦いの神、アテーナーの戦いは、都市の自治と平和を守るための戦いであり軍神アレスの戦いとは異なる。

 

ポリスの守護者、都市を守る女神でもあり、都市アテナイを中心に崇められる。アテナイでは学者は啓示を、裁判官は明晰を求め、軍人は戦術を磨こうとアテーナーに祈りを捧げたと言われる。

 

アテナイでの文化

古代ギリシアにおいては個人のみならず、ポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる。

 

古代ギリシアでは宗教は大きな位置を占めており、アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、生活の隅々にまでその影響は及んでいた。特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、デルフィでの神託は未来を予知するためのものだと認識されていた。さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた。

 

奴隷制が発達し、特に家庭内奴隷が多く、奴隷が人口の1/3を占めたポリスでは、市民の閑暇(スコレー)が 哲学、フィロソフィア(愛知)、つまり、神話で解決できない物事の説明、理性(ロゴス)に基づき、理性的に物事を探求する方へ向かわせた。彼らは次第に、日常生活からきり離れて、万物の根元(アルケー)を探求しはじめた。

 

アテナイでは世界で初めての民主主義が誕生したとして知られており、ポリス(都市国家)において発展した。古代ギリシアの典型的ポリスであるアテネでは、前6世紀末までに参政権をもつ市民が直接的に運用する民主政治が実現、ペルシア戦争後の前5世紀中頃のペリクレス時代に全盛期を迎えた。民主制は古代ギリシアの代表的なポリスであるアテネで典型的に発展した政治形態であり、現在の民主主義を意味するデモクラシーという言葉もこの時期の政治形態が源流である。

 

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民主政治を導くペリクレス

 

ギリシア各地から学者、芸術家が集まり文化の花が開き、ギリシア哲学のソクラテスプラトンアリストテレス、劇作家のアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスギリシャ悲劇)、アリストパネスギリシャ喜劇)、彫刻家のペイディアス、歴史家のトゥキディデス、著述家のクセノポンらが輩出した。皮肉なことに彼らの多くがアテナイの没落を目にして役職の直接選挙制に否定的な思想を唱えた。

 

市民参加型の民主政治が実現したポリスでは、人々に発言の機会があり、そこでは、人々を説得させる弁論、弁論術が流行し、世の中を自然の法則(ヒュシス)と人為的(ノモス)な法則に分け、人為的な物事に絶対などないとする相対主義が出現した。その相対主義を前面に出して、弁論術を教える職業教師をソフィストと呼んだ。プロタゴラスは「人間が万物の尺度」と普遍的な真理を否定した有名なソフィストの一人である。

 

真理を相対化し、何事も利己的に説明することができれば、社会で守るべき普遍的なルールや法律を変えることができてしまうソフィストは実際には市民に詭弁論を教えて愚衆政治に導くことをソクラテスは批判した。ソクラテスソフィストと対立し、弁論術を磨き人間を万物の尺度と真理の相対化に対抗。真の知への探究という使命を果たすが、青年たちへ問答法を通して無知を自覚させたことに、国家の神々を否定し青年を害した罪に逃げず、「悪法も法なり」と自分の死を最後の皆への教えとした。

 

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ソクラテスの死』

 

 

古代ギリシア民主政では女性の参政権はなく、生産は奴隷に依存しており、また近隣の植民地にも生産を依存していた。またアテネ海上帝国化していく過程で次第に衆愚政治に陥り、前5世紀末のペロポネソス戦争後は次第に衰退した。

 

アテナイでのコスモロジー

人間の天文に関する知識やその頃の市民の価値観はギリシャ神話の中で語り継がれたのだろう。自然現象を神話で説明することの限界を迎え、奴隷制度による閑暇から人間の理性による哲学、フィロソフィーが発達しはじめ、長らく学問へ影響を及ぼした「アリストテレス的自然観」の誕生へとつながってゆく。

 
雄弁なギリシャ神話のストーリーの体系が古代ギリシャの中核になっていたのは、その時代の人間の暮らしに馴染んでいたからである。その時代、人間の暮らしの中での人々の観察対象、観察可能なシステマティックに動く物事とは、天体、星の動きであった。

 

紀元前3500年ごろから、古代メソポタミア古代エジプトに置いても独自の文明が発達し、天文学の知識は蓄積していた。その知識が体系化され始めたのは、古代ギリシャにおいてである。古代ギリシャの人たちは秩序だった規則的運行を続ける宇宙をコスモスと呼んだ。カオスに対し、法則秩序を持った宇宙をコスモスとしている。

  

古代ギリシャコスモロジーとは、神話の影響を受けながらも天体の運動を論じる天文学と地上の物体運動を論じる自然学であり、コスモスの探究は自然哲学者の手に移り、万物の根源を(アルケー)解明することに焦点が当たる。アルケーへの問いは自然哲学者によって様々に自由に述べられている。 

 

最初の哲学者であるタレスは「水」、ヘラクレイトスの「火」、エンペドクレスの「火・空気・土・水」4つの元素と「愛・憎しみ」による運動因子、ピュタゴラスの「数」、デモクリトスの「原子(アトム)」、、など。これらはギリシャ的な物質観の基礎となり、アリストテレス的自然観に吸収される。

(サイバー時代の万物の根元は「情報」、とでもいうのだろうか?)

 

そして、このアリストテレス的自然観は、何とおよそ2000年の長期に渡り自然感を占領し続けた。この長期コスモスにパラダイムシフトを起こしたのが「科学革命」である。

 

コスモロジーの継承

古代ギリシャ哲学は、すんなりと中世のキリスト教世界に引き継がれてはいない。古代ギリシャと中世の間には空白がある。古代ギリシャの科学的知識はヨーロッパからアラビア世界に伝えられ発展を遂げている。つまり、アラビア世界から独自の発展を遂げたギリシャの科学的知識が、12世紀のルネサンスにより逆輸入されたのである。

 

ルネサンスは通常14−16世紀にかけての文芸復興を指されるが、歴史家のチャールズ・ハスキンズは、ギリシャの科学的学問としての復興を、12世紀のルネサンスと呼んだ。このルネサンスでは、イスラム世界から西欧世界への知識の移転を、文明の遭遇、文明移転と呼び、12世紀は西欧世界の知的離陸の時代であったと、伊藤俊太郎は述べている。

 

アラビア化学は、ギリシャ科学の、数学、天文学、自然学の伝統を受け継ぎ、さらに、錬金術や医学、など、実践的な部分を強化させた。この錬金術に代表される、実験技法は、13世紀のベーコンなどによる実験科学に結びついていく。

 

ギリシャ哲学、ギリシャ科学が、論証精神とすれば、アラビア科学、錬金術に対応するのが、実験精神であり、論証精神と実験精神の融合と、ヨーロッパへの知識の移転は、近代科学の母胎になったと言える。